歴 史

国登録有形文化財建造物「金沢町家兼六」の所見

金沢市 文化財保護課 主査 長池 秀崇

(名    称) 金沢町家兼六
(所  在  地) 金沢市昭和町224番地(住居表示:昭和町9番10号)
(構造及び形式) 木造2階建、瓦葺一部金属板葺、建築面積47.58㎡
(建築年代) 明治21年(1888)/昭和13年(1938)改修

1.由緒・沿革
 金沢町家兼六は、旧城下町と港町である旧宮腰を結ぶ旧宮腰往還沿いに位置し、この界隈は、藩政期より「折違町」とよばれ、付近を流れる鞍月用水に架けられた橋が、道が曲がっていたため、斜めに架けられたことから「折違橋」と呼ばれたことに由来する。現在の町名は、昭和40年(1965)に実施された住居表示によって改められたものである。
 建物は、明治21年(1888)に越村庄太郎氏によって建築され、近隣で八百屋を営んでいた荒木善太郎氏が明治27年(1894)に購入し、現所有者が取得するまで、荒木家が所有してきた建物である。荒木善太郎氏はもと加賀藩の武士で、明治になり近隣で八百屋を営んだとされる。
 現在の街区となったのは、昭和11年(1936)に可決された金沢都市計画街路事業により、前面道路が拡幅された時で、事業は昭和13年(1938)には完成している。看板建築となったのは、この街路事業がきっかけであり、街路事業が完成した昭和13年に善太郎氏が亡くなり、荒木広氏が跡を継いだが、弟・静夫氏が建物正面の意匠をデザインしたと伝わり、静夫氏は市内名門校の金沢第一中学校(現在の泉丘高等学校)の数学の先生であった。
 現所有者は、市内で少なくなってきた看板建築を保存したいという思いから、荒木氏より平成30年度に土地建物を購入した。内部外部共に、その雰囲気を活かすため、今後、簡易宿所“金沢町家兼六”として活用される予定である。

2.建築年代・改修年代
 建築年代は、登記簿謄本より明治21年(1888)であることが推測され、昭和13年(1938)に現在のような看板建築に改造されたことが聞き取り調査から分かり、その時期に金沢都市計画街路事業により前面道路が拡幅されている。市が所蔵する「金沢市町図」によると、拡幅前の土地は長方形であり、事業によって土地の4分の3以上が道路となっており、後ろの古道町側に土地を拡張し、現在のような後方が先細りの土地を形成したことが分かる。また正面側においては、丁度この建物から歩道の幅が広がっているが、金沢都市計画街路事業の名残で、当時、道路中央に「安全地帯」と呼ばれる分離帯のような空間が設けられ、この部分から道路幅が広がっていることが分かり、前面道路境界が斜めであることが、建物の意匠にも大きな影響を与えている。建物の部材は古めかしく、明治期まで遡るものと考えられるが、曳き家後、正面側を切断し壁を立ち上げ看板建築の形態とし、かつ建物後方においては土地の形状に合わせて大きく改造したものと推測される。

3.建物について
 主屋は木造2階建、切妻造平入、桟瓦葺とし、後方付属屋は金属板葺きとする。
 1階平面は、建物向かって右手玄関から半間のトオリニワを通し、左手に階段のある5畳強のチャノマと床の間と押入2つを並べた4畳強の和室、台所を並べる。チャノマ前方には、敷地形状に合わせて、面が取られた平面を持つ空間が張り出す。トオリニワは敷地の形状に合わせて、くの字に曲がり奥の付属屋を繋げる。付属屋は土間でかつての水洗い場が残り、上部の空間はアマとする。
 2階は階段を上がると間口方向に廊下が通り、前後に部屋を配す。正面側は押入を設けた4畳半の和室で、前方には1階と同様の平面形状の空間を張り出す。背面側は床の間を設けた座敷で、中庭側に縁側を通す。
 最大の特徴は、立て板状の壁を立ち上げた看板建築のスタイルであり、間口2間強のうち、向かって右手一間弱を玄関とし、向かって左手1間半を張り出すが、前面道路境界の斜めの敷地形状に合わせたと面取部分が意匠に変化を与えている。外壁はモルタル洗い出し仕上げとし、横目地を入れて石調に仕上げ、開口部頂部はキーストーン風の意匠で飾る。装飾性のないシンプルな意匠とするが、張り出し部と主屋部分の立ち上げ頂部の高さを変えて立体的な意匠を形成している。前述したようにファサードのデザインは、昭和11年の都市計画街路事業に伴い造られたもので、当時の所有者の弟がデザインしたものとされ、金沢第一中学校の数学の先生を務めた人物であった。藤森照信氏著の『看板建築』にも、大工や設計士でなく、絵描きや素人の施主によるデザインのものが紹介されており、金沢においても、同じような傾向が見られる点は興味深い。
 市内に残る看板建築は少なく、既に国登録有形文化財(建造物)に登録されている上野家住宅旧診療所や角島家住宅店舗及び主屋のほか、10棟程度が確認されている。そのうち本建物を含めた5棟が、同じ通りに沿いに位置している点はこの界隈の特徴であり、昭和11年という年代に行われた都市計画街路事業が大きな影響を与えていることが分かる。特に金沢町家兼六は、道路がさらに広がる地点に位置し、前面道路の特徴を顕著に表した建物であり、この界隈の歴史的街路空間を物語る上で欠かせない存在である。